空想ノンフィクション

音楽レビューや世間話など。

「古参ファンがアーティストの現状を憂う」のは仕方のないこと

「私の好きなあのアーティストは変わってしまった」

「有名になってしまった」

なんてことをときどき聞く。

(ネットでもときどき見る)

RADWIMPSとかね。

 

そしてその言説に対して

「そんな古参ファンがいるけど、変わり続けるその姿こそ

アーティストそのものであり、応援すべきだ」

等々、対抗する言説もよく見る。

 

よくある議論(もしくは議論未満のもの)であるが

私はそんな議論についてああだこうだ言おうというわけではない。

 

「古参ファンがアーティストの現状を憂う、もしくは気に入らなくなる」現象

というのは、当人にとってあらがえない感情である、ということだ。

そう、仕方ないのだ。

その上で、それがうっとうしいという言説も誠に正しい。

 

なぜこんなことを言うのか。

それはもっとも、自分がそのような感情を抱くことがよくあるからだ。

ファン感情というのはめんどくさいもので、

自分が好きになった時のアーティスト像から離れると、

どうしてもモヤっとした感情が自然発生する。

 

特に最近は多い。

あれだけテレビを避けていたBUMP OF CHICKENRADWIMPS

フォークギターやマリンバを演奏していた星野源

音楽からアートワークを全てセルフで行う天才米津玄師。

人は、アーティストは変わるものであるし、

変わることでこそ素晴らしい音楽が作られる。

それを理解している自分の中の「理性」と、

旧来の”好き”に翻弄されている一部の「感性」がぶつかり合う。

新譜が出るたびに、それを素直に受け入れられない人々の感情を

とても理解できる。

でも、そのアーティストの芯の部分を好きなのは変わらないのだから、

その感情を尊重してこれからも聴き続けたい。

 

米津玄師がこの前の幕張メッセのライブで以下のようなMCをしたらしい。

「最近の俺の規模感、音楽性の変化にある種戸惑いを覚えている人もいるだろうなあと感じています。でも、なんだろうな……変わっちまったな、遠くに行ってしまったなと言われるたびに、そんなこと言うなよって思っていて」

「個人的には、変化していくことは殊一番美しいことだと思っています。同じことをやっていてもしょうがない。昔やっていた音楽はそこにある。より遠くへ行くことがある種の信念になっていて。それが自分のためだし、回りまわって聴いてくれる人のためにもなりうると思ってます」

 

米津玄師/幕張メッセ国際展示場ホール1~32018.10.30 邦楽ライブレポート|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

作品を出すごとに変わり続け進化する米津玄師の新譜に関しては、届いたばかりなので

また感想の記事をだそうとおもう。

まっさらな気持ちで新譜を聴きたい。